kaz koyama / phoble Co., Ltd.

PHOTOGRAPHER / CGI DIRECTOR

岩手県山田町 写真の記録


『山田町』

写真で伝える事.

写真の転換点となりました。

そして、その時間の中で出会った多くの人たち。
今でも山田町に行けば
『おかえりなさい!』
と声をかけてくれます。

かけがえのない友人たちです。

2011年4-5月

ボランティア作業のかたわら、
写真を撮りはじめました。
ただ目の前にあることを少しでも記録しよう、
誰かに伝えよう。
それだけでした。

豊間根中学校避難所でボランティア作業をしました。
山田町から山一つ越えた自然の豊かな場所でした。
生徒さんたちも普通に授業をしていました。

昼夜の炊き出し支援です。
当時、約300名ほどの方々がいらっしゃいました。

ゆっくりゆっくり時が過ぎ
夏に向かい日差しも強くなりました。

避難所のエリアから山を越え
町に降りると、
全てが破壊され砂埃を被り
全体が赤っぽいグレーになった
町が広がっていました。
瓦礫も散乱し、
刺激のある臭気が消えることはありませんでした。


あちこち地盤沈下して水溜りになっていました。
町は津波大火で焼け焦げ、
駅前の広大なスペースが一面焼け野原でした。

2011年8月

8月お盆の頃、
避難所から仮設住宅への転居が始まりました。

長かった集団生活が終わりました。

町には、ごくわずかな人の姿しかありませんでした。
皆さん『見たくない。』とおっしゃいます。
営業しているお店もごくわずかでした。


山崎卓三さんとの出会い。

道端で撮影していると漁師の『卓三さん』に声をかけられました。

写真を撮る理由を尋ねられ、
それならば

『すごいところを見せてあげる。
あなたの車で行きましょう!』

と案内された場所が
『小谷鳥(こやどり)海岸』です。

谷に面した山の斜面に
津波の跡が生々しく残っていました。

海に面した谷の大きさ、
異様さ、理解を超える被害。

その全容を一枚の写真で捉えることの困難さ。
それらが今の写真のスタイルのスタート地点になりました。

『目の前にある事柄を極力脚色せず、再現すること』

それが自分の写真の大きな目的となった出会いでした。




2011年10月

夏が過ぎ、光が穏やかな季節になると
とてつもなく美しい空や雲が在りました。
夕暮れの空は宇宙の端を見ているかと思うほど
透き通っていました。


この風景を残したい。
ボランティアとしての仕事はなくなり、
写真を撮り、知り合った人たちに会うために
山田町に向かうようになりました。

卓三さんのお家にご挨拶に伺いました。

曰く
『これが3度目の津波です。
今回はここまで波が来ました。』

津波のまさにその時、
玄関横に付けたペンキの目印を見せていただきました。
赤い津波の文字が目に沁みました。



2011年12月

亀山さんとの出会い・冬の始まり

通うようになった仮設住宅の自治会長をされていた亀山さんとの出会いが
その後の山田町との関係の中で大きな契機となりました。

イカ釣り漁師をされていた人です。
311以降は遊漁船を生業としています。

大きな人です。

なんでも相談に乗ってもらいます。

津波から命をかけ船を守り
生き延びました。

その後の大病でまた死にかけて
『もうダメだ。』とみんなが思った淵から
帰ってきました。

自慢の友人です。

低く差し始める朝日の温もりが
ありがたく感じられる季節です。

震災前約200艘あったと云われる漁船の数が
元に戻ることはありませんでした。


2012年2月

冷たい風の吹き抜ける真冬です。

港で共同作業が始まりました。

養殖漁師さんの出荷作業は早朝2時頃から始まり、
競の始まる朝まで続きます。
ブルーシートで囲われた仮設作業場は
芯から冷える寒さです。

港内の瓦礫撤去作業がありました。

山田町にはあまり雪が降りません。
真冬よりも春先にドカ雪があります。

あの日も雪が降っていました。

2012年3月11日〜13日

一年が過ぎました。
浜であのサイレンを聞き、
黙祷しました。

廃船置き場には
たくさんの船が横たわっていました。

11日夕方から雪になりました。

12日の朝、全てが真っ白になりました。

絵のような景色に目を奪われました。
墨絵のようです。

そして13日には快晴になりました。
春先の雪はすぐに溶け始めます




 2012年夏と秋

2度目の夏が、そして秋が来ました。
人の顔も少し和らいできました。
港はとても活気があります。
美味しい海の幸が豊富です。

何を食べても美味しい!
とても豊かでした。

その度、表情を変える山田湾は撮り飽きることがありません。

朝日と夕日はいつも印象的です。

漁師さんの笑顔も素敵です。
ワンコの写真をプリントしてお渡したら、
山ほどのホタテを頂きました。

『俺らこの浜を愛してんだよ。』
印象的な言葉です。

変わらず美しい空と壊れた堤防が在ります。




2012年9月15日〜17日 祭

震災後初の祭の日がやってきました。


町中が色めき立ち華やぎ、
町に若者と子供があふれました。

皆、この日のために故郷に帰ってきました。
まさに祝祭の日々です。

宵宮から始まり、
祭りは3日間休みなく続きます。


熱に浮かされた様な不思議な経験です。

宴の後

静かな荒神浜をたずねました。
山田の神聖な浜です。
荒神様が祀られています。

復興とは?
何を成し遂げたら完了なんだろう?
町の人にも答えの出ない問いなのだろうと思います。

こうして、
自分の中での
『被災地=ボランティアそしてカメラマン』
と云う組み合わせは終わりました。

徐々に山田町の事は
人とのつながりの事に変わりました。

織笠消防団の人たちです。
屯所の開所お祝いに呼ばれました。

彼らは無名の英雄たちです。
命懸けで水門を閉め
三日三晩消化活動と並行してご遺体捜索をした人たちです。

彼ら彼女らは町のために力を尽くしました。
今も変わらず彼らは居ます。

時に苦悩の表情が過ります。


山田線復活 2019/03/14

長らく止まっていた山田線が
全線開通の日を迎えました。

朝の特別列車をみんなで迎えました。

公営住宅の前で減速します!
と云う触れ込みでしたが
電車はアッと云う間に過ぎていきました。


そしてまた陽は昇ります。

ところが
この年の台風で再び被害を受け
長い運休が続き
2020年春、
やっと再開に漕ぎ着けました。

ウニの口開けの日。
分団長に笑みが溢れます。

あちらこちらに
巨大堤防が立ち上がりました。



再訪


山田町に行けば色々な話をします。

びっくりする話。
悲しい話。

笑い転げる様な話。


そして今

2021年末、
久しぶりに写真を撮りました。

何も考えずパシャパシャ撮りました。
ファインダーも極力覗かず、
目で見た印象でシャッターを切りました。

今の山田町です。
海のものが取れません。

また一つ悲しい話を聞きました。

年末『スーパービハン』は大賑わいです。
夜の港には釣りする人がいます。

朝晩は心底冷えます。




見た目には変わらない山田の海にも
異変の兆候が忍び寄っているように感じます。

魚種がスッカリ変わってしまいました。
獲れるのは『青魚』ばかりです。


冬に欠かせない『シャケ』や『スルメ』が全く獲れません。
新巻は異常な高値です。

あの直後、山田町
『一体どうなってしまうんだろう?』
という強烈な哀しみばかりでした。

10年と云う時間を経て、
目に入る様子は整いました。

被災者町営住宅もできました。
山田線も復活しています。

人はどうなのでしょう?

そして、また写真を撮りに行くのだろうと思います。


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テーマの著者 Anders Norén

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